むすはじ私的レビュー
言うべきか、言わざるべきか、それが問題だ――
何のことなのか。先日大千秋楽を迎えた2.5次元ミュージカル『刀剣乱舞』~結びの響、始まりの音~ について、批評レビューを書くか書くまいか、という話だ。
色々考えたが、やはり書くことにした。何だかんだ言って私は刀ミュを愛しており、常に新しいことに挑戦しながらクオリティーを上げていく舞台であって欲しいと思っている。自分の意見一つで何か変わるとは考えていないが、いちファンとして作り手から受け取った作品に対するアンサーは出しておきたい。
結論から言うと、私は今回のミュージカルにあまり満足できなかった。
少なくとも百点満点は付けられないと感じた。
物語の構成
今回の話を簡潔にまとめると、以下のようになると思う。
①物語の主人公は土方さん
②近藤さんが死んで自分の命の使い道を見失った土方さんが、榎本武揚と出会ってそれを再発見し、そして死ぬまでの物語
③刀剣男士は、その土方さんの死を見届ける役どころ
割とシンプルな構成だ。
話の主役が土方さんであるということ、少なくとも話のテーマの中心に土方さんが据えられているという解釈については、公演パンフレットを見る限り間違ってはいないと思っている。
その土方さんの周辺で、和泉守や堀川たちの物語――つまりは、元の主の死にどう向き合うべきなのか、という物語――や、物語なき時間遡行軍と巴形の物語などが展開される、という構造になっていた。つまりメインアクターはあくまで土方さんであって、他のキャラクターは脇役だ。
脇役は主役の物語を引き立てるために存在する。その意味で、今回刀剣男士や他の人間キャラクターたちは強く出しゃばらずに自分の役目を果たしていたと思う。榎本武揚がその典型で、彼は「命の使い道を失った土方歳三に再びそれを与える」ための存在として、いわば物語のコマとして、彼なりのロールプレイを行なっていた。
和泉守にしてもそうだ。彼が土方さんに問いかけることで、土方さんは「命の使い道」という言葉を発する。つまりは土方歳三という男の生きる理由であり、死ぬ理由だ。土方さんがこれを再び見つけることがこの物語のメインテーマなので、和泉守の役割は殊のほか重要だ。彼もやはり、自分の役目をきちんと果たしたと思う。
土方歳三の物語とは何だったのか?
本人にとって、また彼を取り巻く人にとって、土方歳三という人の生き様とは何だったのか?
そして彼が地獄への道連れにしていった「刀の時代」、つまりは武士が刀を振るって戦う世とは何だったのか?
それを踏まえた上で、土方歳三という男はいかに死ぬべきなのか?
この舞台はそれを問うていく物語だ。少なくとも私はそう解釈した。
刀剣乱舞のメディアミックスとして
ただしこの舞台、問題が一つある。
それは、これが「刀剣乱舞のメディアミックス」である、ということだ。
刀剣乱舞の主役は誰か?
それは刀剣男士だ。プレイヤーの分身たる審神者が登場しない以上、刀剣乱舞のメディアミックスの主役を張るべきなのは刀剣男士を置いて他にいない。
ファンは刀剣男士の活躍を見ようと劇場に足を運ぶ。
笑えるほど高倍率なチケットをもぎ取り、高いお金を払い、時間を作って観劇に訪れる。
彼らに――つまり私たちだ――作り手として正しく報いるためには、刀剣男士を登場させない訳にはいかない。
身もふたもない言い方をすると、彼らをメインに据えた作品を提供しなければならない、という商業的要請がある。その点を考えると、作劇上、土方歳三は脇役にしておくべきだった。
もしくは、土方にスポットライトを当てるとしても、それはあくまで刀剣男士との「ダブル主人公」であるべきだった。そう強く感じる。
たとえばこういうことだ。
刀剣男士代表としての和泉守と、彼を取り巻く堀川や長曾根ら仲間たち、個性的な対話相手として登場する陸奥守。
それと対比する影の主人公・土方と、彼を取り巻く新撰組の仲間たち、個性的な対話相手として登場する榎本武揚。
こうした構造を作って、二人の物語のテーマが高度に融合した話を展開する。あの三百年の子守唄を書き上げたスタッフなら、これくらいは出来たと思う。
これは一例なので、他にも色々やり方はあったと思うが、しかし実際にはそのどれもが行われなかった。
「むすはじ」の主役は土方さんであり、刀剣男士は脇役だった。刀剣乱舞のメディアミックスとしての刀ミュを考えたとき、私にはそれが残念でならない。
二兎追うものは…
「土方さんが主役だとして、それのどこが問題なんだ」という意見もあると思う。
2.5次元舞台は大衆演劇とはいえ芸術作品だ。作り手には自由な表現をする権利がある。商業的な成功のため、ある程度の配慮が必要だとしても、刀剣男士だってちゃんと登場させている。
実際、土方歳三が主役の物語として破綻があったかといえば、そんなことはなかったと思う。
はじめに書いたように、土方さんの物語はシンプルにまとまっている。台詞回しはいつもの刀ミュらしく気が利いていて素敵だったし、役者の演技や音楽、演出など良かった点もたくさんあった。ラストシーンは美しく、あのとき観客が得た感動や涙だって本物だ。
しかし、やはり、百点満点ではない、と感じる。
なぜか。
「鬼の新撰組副長・土方歳三」の物語として徹底していないからだ。
これは刀剣乱舞のメディアミックスなので、どうしても刀剣男士に尺を割かないといけない。すると必然、土方歳三の物語にかけられる時間は減っていく。
榎本武揚の描かれ方がどうだったか思い出してほしい。「近藤勇にかわる土方歳三の新たな命の使い道」である彼のために死ぬ、と土方さんが心を決めるまでの過程は、果たして十分に描写されたと言えるだろうか。コミカルな演技と勢いで押し切ってはいなかっただろうか。
「それは刀剣乱舞のメディアミックスなんだから仕方がないだろう」という意見もあるだろう。
そのとおり、仕方がないのだ。刀剣乱舞のミュージカルなのだから、土方歳三に「全振り」したシナリオはできない。それは最初から分かっている。
では、土方歳三の物語としての完全性を犠牲にして描いた刀剣男士たちの物語が十分だったかというと、それも違うと感じる。
たとえば陸奥守だ。彼が坂本龍馬の死とどうやって向き合い、乗り越えたのか、はっきり分かる言葉や振る舞いがあっただろうか。「既に乗り越えた者」として、和泉守の弱さを引き受け、最後の銃弾を放つ彼の物語は過不足なく描写されていただろうか。
つまりは、どちらも中途半端になってしまっている、と思う。
私にとって、これはとても悲しく残念なことだった。
刀剣乱舞でしかできない舞台を
私は刀剣乱舞というコンテンツが好きだ。
人間ではないのに、人間のような姿と心を持ってしまった刀剣男士という存在にロマンを感じる。人ならざるものの目を通して、人間とは、歴史とは、物語とは、生きるとは死ぬとは、ということを問える力を秘めた作品だと思っている。
一方、土方歳三の物語は多様だ。
『燃えよ剣』に始まり、ありとあらゆる媒体で、様々な作り手が彼のストーリーを描いてきた。
それだけ魅力的な人物なのだ。それは間違いない。描きたくなる気持ちも分かるし、見たくなる気持ちも分かる。
しかし、刀剣男士の物語を描ける場は、ここにしかない。
人間のような姿と心を得た刀・和泉守兼定や刀剣男士たちが何を思い、どう苦悩して、どんな成長を遂げるのか見られる舞台はここにしかない。そして、刀剣乱舞でしかできない舞台というものがあるはずだ。
だからこそ私は刀剣男士が主役のミュージカルを期待していた。刀ミュに限らず、刀剣乱舞の全てのメディアミックスにそう期待している。これからも期待し続けるだろう。
新作公演が「刀剣男士の物語」であることを心から願っている。