慈伝私的レビュー

刀ステ慈伝を見た。

 

結論から言うと普通に楽しめた*1

これまでとは180度、いや一回転半して540度くらい毛色の違う舞台だったが、これはこれでありだと思った。2時間半よく笑い、よく萌えられた。2.5次元舞台は大衆演劇のエンターテイメントであり、客を喜ばせてナンボであると思っているので、この「見ていて楽しい」というのは個人的にとても重要なことだった。

 

シナリオについては、とりたてて特筆すべきことはなかったと思う。内容が薄かったと言いたいわけではない。たとえるなら、劇場版こち亀のストーリーに優れた技巧や意義深いテーマ性を求めることがないというのと同じで、今回の刀ステで脚本の精緻さ・構成の妙みたいなものはさして重要ではないと思ったということだ。

 

では何が重要だったのかというと、キャラクターがいかに生き生きと動いているか、だろう。2.5次元舞台とは従来そういうものなので当然だが、この点はかなり高得点がつくのではないだろうか。ものがスラップスティックコメディなので概ねみんな「キャラ崩壊」してはいるのだが、そこはアニメ「花丸」のようなものと捉えるべきか。役者さんはみんな頑張っていたと思うし、あれはあれで一つの「とある本丸」ということだろう。

 

 

ストーリーの骨格

コメディとはいえお芝居をやる以上、ストーリーには骨格がある。

 

今回はざっくり「①山姥切長義(以下、長義)の本丸着任に伴う山姥切国広(以下、国広)との軋轢」、「②国広と長義がそれぞれ抱える葛藤」、「③それを取り巻く人間模様*2」あたりが主題だろう。また、②のサブストーリーとして「②´五虎退の探し物」が脇を走っている。

 

この話の山姥切たちはどちらも修行に旅立っていないので、「本歌と写し」の問題に伴う葛藤を自力では解決できない(長義に至っては原作ゲームでもまだ極が実装されていないので、なおさら解決できない)。そのため彼ら二人だけで閉じた関係にしてしまうと永遠に殴り合いを続けることになり、ドラマにならない――オチがつかない――ので、周囲のキャラクターが介入する、という構造だろう。

 

この点、個人的には南泉一文字がよい仕事をしていると感じた。国広の方は長谷部に山伏、同田貫といったサイドキックキャラクターが陰に日向にサポートしていたが、長義に付いていたサイドキックは実質的に南泉一人だった。これまでの作品を通じて培われた信頼関係で結ばれた仲間たちが国広の肩を持つのは当然なのだが、それと同じだけのエネルギーでもって長義を支えるべき立場に置かれた猫殺しくんは、ちょっと涙ぐましいくらい献身的にサポート役をこなしていたと思う。

 

 

誰かが誰かを救う話

少し前に「「男」に「男」は救えるか?」というエントリーが話題になったのをご存知の方もいると思う。

https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/06/21/190301

 

この議論自体は、私自身が否定や肯定できるほど詳しくないので判断を避けるが、「生きづらさを抱える人間が、誰か別の生きづらさを抱える人間との交流によって救われるストーリー」というのは、古くは萩尾望都作品から始まる少女漫画文化と、その延長線上にある各種女性向け(とされる)コンテンツで、今も脈々と描かれていると考えている。

 

刀剣乱舞の各種メディアミックスも、大きな括りではその中に入ると思う。特に刀ステはその印象が強い。各公演ごとに温度感の高低、出来の良し悪しはあれど、少なからぬ観客がそれを期待している、と感じる。それは制作陣の意向というより、このシリーズの主役――苦しみもがいて成長しなければならない役割を担う――が、山姥切国広だからだろう。

 

国広は分かりやすく生きづらさを抱えたキャラクターだ。彼の自尊心は「刀工国広第一の傑作である自分」と「長尾顕長佩用にして刀工長船長義の傑作の写しに“すぎない”自分」との間で常に引き裂かれている。アイデンティティを確立することができないので、常に不安定で、まだ大人になりきれない青年、というポジションだ。

 

物語上、まず彼の生きづらさが救済されなければならない。そうでないと、彼は主人公(ヒーロー)として、他の誰かを救うことができないからだ。

 

 

未だ熟さぬヒーロー

国広はジョ伝で遭遇した危機を仲間とともに乗り越える過程で、一旦は「俺は俺だ」という答えを得るに至る。

 

それは要するに、生まれや出自といった過去は過去とし、今まさに自分が成していること、これから皆と成し遂げようとすることによって己を定義する、しなければならない、という決意を固めたということだ。「強くならなければならない」のだ。実際、国広はジョ伝において精神的な成長を遂げ、黒田官兵衛率いる時間遡行軍を打倒する。

 

ところが、続く悲伝で彼はいきなり大きな挫折に直面する。強くならなければならない、否、強くなったはずだったのに、力及ばず三日月を失ってしまったのだ*3

 

ここで彼の自尊心は再び真っ二つにへし折られる。慈伝の劇中で本人が告白しているように、少なくとも国広自身はこれを己の気構えが足りなかったためではないか、自分の未熟さが招いた結果ではないか、と気に病んでいたことがうかがえる。自分がこれまで本丸で成してきたことに対する自信を失った彼は、自尊心のよりどころを見失って、また救済される前の不安定な青年に戻ってしまった。

 

刀ステの国広は未成熟なヒーローだ。彼は再び成長しなければならない。でなければ結いの目に囚われた三日月を救えない。

 

そこで登場するのが山姥切長義だ。

なぜなら彼こそが、国広の抱えている「未解決課題」の最右翼だからだ。

 

 

鏡合わせの自分

山姥切長義という刀剣男士も、やはり国広の本歌というべきなのか、相当に生きづらさを抱えたキャラクターだ。

 

長義は国広のことを「偽物くん」となじる。彼がここまで真っ向から無礼な態度を取るのはほぼ国広に対してだけだが、それを同田貫ら第三者咎められても悪びれる素ぶりひとつ見せない。劇中ではほぼ常にアクセル全開で喧嘩を売りに行っており、そのことで国広本人のみならず仲間からも顰蹙を買い、彼を案じる南泉をたびたび青ざめさせる、ということを繰り返していた。

 

この極めてReckless Fireなムーブだが、彼が歓迎会の酒を「飲まない」のか「飲めない」のかの話で示唆されているように、すべて“虚勢”であることがうかがえる。

 

というのも、長義というキャラクターのアイデンティティは、本歌である己を“差し置いて”山姥切の名で呼ばれる写し・国広の存在によって常に脅かされているからだ。

レーゾンデートル喪失の危機を回避するため、彼は絶えず自分が自分であること、すなわち長船長義が打った傑作、“山姥切”長義であることを示し続けなければならない。そのためには一分の隙も見せるわけにはいかない。当の国広に対しては特に――と、彼の心理を想像するにそんなところだろうか。

 

要するに、長義は国広にとって鏡合わせの自分だ。

逆もまた然りで、長義にとって国広を――刀としての存在のみならず、心のありようも含め――否定することは、自分を否定することに等しい。しかし、そうせざるを得ない。かくして、長義の自尊心もまた、国広と同様に真っ二つに引き裂かれる。

 

 

自分に自分は救えない

生きづらさを抱える人間が、誰か別の生きづらさを抱える人間との交流によって救われる、という類型が女性向けコンテンツにはある、という話を上に述べた。

 

自分ひとりで全てが救えたら、それは超人だ。少なくとも刀剣男士たちはそうではない。まるで人間のように不完全で、デコボコと凹凸(おうとつ)のあるキャラクター性を有している。刀剣乱舞のメディアミックスでは、彼らが審神者や本丸の仲間たちとの交流を経て、己の生きづらさの救済を得る、というドラマを描くことができる。

 

この点、国広と長義はお互い似過ぎているがゆえに、相手にとっての救済になることが少々難しい。最初に述べたように、慈伝の彼らは二人とも修行に旅立っていないので、実戦経験の差はともかく、まだ“同レベル”なのだ。

 

そこで、本丸の仲間たちが介入する必要が生じる。

国広と長義の直接対決のさなか、長義を助けに飛びこんだ南泉の行動が象徴的だ。南泉は長義に「心まで化け物になるな」という。化け物とはすなわち、長義の心に巣食った弱さだ。己の弱さに負けず強くなれ、と彼は長義を喝破したわけだ。

 

これを聞いて長義は己の敗北を認める。これまで自分の弱さを徹底的に認めてこなかった彼としては大きな成長だ。刀剣男士として本丸へ着任し、仲間と出会ったからこそ得られた救いであり、これまた一つの「日日の葉」ということだろう。

 

国広もまた、五虎退のどんぐりエピソードや、長谷部たちの発破をかけられたことによって修行に旅立つ決意を固める。本丸で長義と出会ったことで、彼は自分の未解決課題を清算する覚悟を決めたのだ。失われた三日月を救えるほど強くなるために。

 

 

終わりに

要約すると、慈伝という物語は「自信喪失して己を見失った国広が、再び立ち上がるまで」の話だった。同時に、「これまで孤独にアイデンティティ獲得のためにもがいてきた長義が、仲間を得て己の弱さを認める」物語でもあった。その意味で、この舞台は徹頭徹尾「山姥切」のための作品だったと言えるだろう。

 

こう書くとしごく真面目な話のように聞こえるが、実際は新喜劇さながらのコメディ舞台だったわけで、これまでの作品とのあまりの温度差に寒暖差アレルギーが出てしまう人がいるのは仕方がない面もあると思う。若干、原作キャラというより役者さんのカラーがにじみ出ているように見える刀剣もおり、そこが受け付けないという人もいるだろう。

 

思うに、国広と長義はともに、アイデンティティや自尊心に不安定さを抱え、生きづらさを感じている人の共感を得やすいキャラクターだ。彼らが物語の中で葛藤し、仲間に助けられたり、みずから成長したりする姿に何がしかの癒しを得ている人は多いだろう。山姥切たちの葛藤や苦悩が、これまでの刀ステのシリアスな作風で丁寧に描かれるだろうという期待が裏切られた、と感じた人もいたかもしれない。その点は残念なところだ。

 

国広極は今年の冬公演か、遅くともその次の公演には帰ってくるだろうと推測する。今後も舞台が続いていけば、長義極の実装も作品に反映されるかもしれない。シリアスな山姥切たちのドラマはその時に期待することにして、しばらくは公式の展開を見守るしかないだろうか。それならあの破滅的な物販運営には改善を求めたいところだが。

*1:もちろん飲酒の強要に代表されるポリコレ的に誤った描写は除く。このあたりは監修の甘さを感じる。

*2:なお、ドラマの尺としては③が一番長い。これはコメディだからということもあるが、「日日の葉よ散るらむ」の「日日」の象徴として、キャラクターたちのこうした躍動が描かれる必要があったからだろう。

*3:このあたりの展開は、いささか作劇上の欠陥があって、特に国広というキャラクターの問題ではないのだが、国広本人の立場から見るとそのように解釈される、という意味だ。