遙かなる時空の関ヶ原~龍神の神子が知らない地上のしがらみ~

遙かなる時空の中で7(「遙か7」)兼続ルートの感想記事を書くつもりが、資料用にAmazonした本がしばらく届かないことが分かったので、自分の整理もかねて「遙かなる時空の関ヶ原龍神の神子が知らない地上のしがらみ~」を書きました。

ゲーム中では――おそらくややこしすぎてイチイチ説明していられないので――詳しく語られない、関ヶ原の戦い前夜の状況や出来事を、ゲーム的・キャラ萌え的に関係ありそうなところを主にピックアップしてまとめています。ゲームをプレイする際のフレーバーとしてご笑覧ください。

※参考文献:『関ヶ原合戦大坂の陣』、笠谷和比古吉川弘文館、2007年
※ゲームのプレイヤー向けに素人がまとめているので、不正確な部分もあると思います。大学の授業で使いたい方は↑の本を参照してください。
※大きくネタバレはしていませんが、細かいネタバレはありますのでご注意ください。

 

 関ヶ原の原因

まず、関ケ原の戦いは、単純な「豊臣と徳川の覇権争い」ではありません

ゲームの黒田長政が述べているように、これは「何年、何十年もの積み重ね」が原因となって起こった戦いであり、開戦のたった一年前に乱世に「降臨」した龍神の神子にできることは実際ほとんどなかったはずです。

具体的には、以下に述べるような豊臣政権内部の矛盾や、複数の権力闘争が複雑に絡み合って発生しました。

 

①豊臣家臣団内部の矛盾その1-秀次事件-

秀吉の生前から、その後継者を誰にするのかということについては争いがありました。

当初秀吉の後継者と目されていた関白・豊臣秀次は、この対立の中で謀反の疑いをかけられ出家し、最後は切腹に追い込まれてしまいます。俗にいう秀次事件です。

この秀次に対する処分は、いくら謀反を企てたとはいえ――そもそも濡れ衣だった疑いも強いのですが――出家までした人間を許さず切腹を命じ、さらに通常であれば助命されるはずの妻子や侍女に至るまで皆殺しにしたという点で、当時としても常識外れの暴力的なものでした。自分の娘が秀次の妻として殺された大名や、謀反への関与を疑われて処罰されそうになった大名などもおり、家臣たちに対する豊臣家の求心力を低下させる結果を招きました。

→なお、石田三成は、みずから陰謀を企てて秀次に謀反の疑いをかけ、彼を死に追いやったという説(石田三成讒言説)がありますが、近年の研究はこれに否定的です。ゲームでも採用されていないようです。

 

①豊臣家臣団内部の矛盾その2-朝鮮出兵

天正20年(1592年)から始まった文禄・慶長の役(いわゆる「朝鮮出兵」です)の際、作戦や補給、明・朝鮮軍との講和や戦線縮小をめぐって、朝鮮出征軍の諸将と、豊臣政権の文官である石田三成五奉行(ゲームでは「文治派」として括られています)の間で方針の対立がありました。朝鮮出兵は秀吉の死によって慶長3年(1598年)に中止されますが、この時の遺恨は解消されないままでした。

→この時、五奉行――というか三成に対して特に遺恨を残した武将のひとりが黒田長政です。ゲーム中では詳しく語られませんが、彼には三成を政権中枢から引きずり落とそうとする動機があります(後述)。

 

②中央集権化を進めようとする豊臣政権と外様大名との対立

豊臣秀吉は天下を統一しました。

これはつまり、日本各地の大名たちをみんな自分の家臣として従えてしまい(「臣従(しんじゅう)」といいます)「すべての武士の頂点」に立った、ということです。

徳川家康も、前田利家も、上杉景勝も、みんな秀吉=豊臣家の「家臣(直臣)」です。上杉景勝の家臣である直江兼続は「家臣の家臣(陪臣)」です。日本中の武士が秀吉を頂点とするピラミッド型の主従関係に統一されたわけです。

とはいえ、全国を豊臣一族だけで支配することはできませんから、豊臣子飼いの家臣たちや、いわゆる外様(とざま)大名――もともと各地の有力者だった大名家による分割統治・地方分権をせざるを得ません。その一方で、勝手な真似をされないよう、大名たちの領国統治をある程度コントロールする必要がありました。

このため、石田三成五奉行中央集権的な施策を打ち出していきました。代表的なもののひとつが太閤検地で、これは諸国の大名からすると内政干渉――ふるさと納税をめぐって国と岸和田市が対立しましたが、あれがもっと深刻になったようなもの――を受けるということを意味しました。結果、中央集権化を推し進めようとする豊臣政権VSそれに抵抗する外様大名という対立が生じました。

→秀吉が大名家同士の勝手な結婚を禁止したのも、この中央集権化の一種と言えます。戦国時代において大名の結婚とは「軍事同盟を結ぶ」こととイコールだったからです。

→ゲームの柳生宗矩は没落寸前のお家を立て直すために家康に仕えていますが、そもそも柳生一族の領地が没収されることになったのもこの太閤検地が実施されたためです。

 

③公儀としての豊臣政権内部における主導権争い
天下人となった秀吉は、何もすべてを自分の意のままに統治しようとしたわけではありません。

豊臣政権は、秀吉自身と、彼の意に沿って忠実に動く五人の家臣たち=五奉行、そして外様大名たちの代表者である五大老がお互い相談しあいながら運営する公儀(こうぎ。おおやけの政府、公権力のこと)でした。

石田三成五奉行のひとりです。徳川家康上杉景勝前田利家はみんな五大老に列せられている大大名です。つまり政権の中にそれだけ多くの有力者がいるということですから、必然、彼らの間で主導権争いが起こることは避けられません。秀吉が死に、権力の空白が生じたことで、こうした争いが激化しました。

→ゲームで直江兼続が言うように、五大老はお互い同格の存在です。しかしこれはあくまで建前の話であり、実際には前田利家の死後、対抗馬がいなくなった家康一人の権力が突出して大きくなっていました。上杉景勝の家臣である兼続にとって、家康は主君の政敵に当たります。

 

④豊臣家と徳川家の覇権争い

かくて、秀吉の死後、跡取りとなるべき秀頼もまだ幼い豊臣政権は、嵐の海に浮かぶ小舟のように急速に不安定化します。

ここで、大名たちの間にひとつの疑問が生じます。

秀頼の成長を待ちながら豊臣政権を支えていくべきか
それとも、豊臣の地位を奪って、新たに徳川の天下を打ち立てるべきなのか

徳川幕府の成立を知っている私たち現代人には想像しづらいですが、この二つには大きな違いがあります。徳川の天下を打ち立てるということは、全ての武士にとって主筋にあたる豊臣家を捨てるということを意味するからです。さりとて徳川についたところで、その後の地位が安泰かどうかなど、誰にも分かりません。

豊臣政権を支持するのか、それとも徳川を選ぶのか。この問いが武将たちを悩ませることになりました。

→ゲームの真田幸村は、武士として豊臣家に忠誠を誓っており、それを裏切ることは義に反すると考えています。そのため彼は家康に味方することができません。
なお、実は家康自身、関ヶ原の時点で豊臣の天下に直接挑戦しようとしていたわけではありません。関ヶ原はあくまで「豊臣の家臣同士の争い」に過ぎません。しかし――ゲームをプレイすると分かりますが――このゲームの石田三成は諸事情により「淀殿と秀頼を守る」ということに個人的に固執しているため、家康とは手を結ぶことができません。

 

後にいわゆる西軍の主要メンバーとなるのが、①文治派(≒五奉行)-②中央集権派-③反・家康派-④豊臣政権支持派です。代表格は石田三成です。彼らは比較的まとまって連携することができましたが、数が少ない上に軍事的には劣弱でした。

これに対抗する勢力は、①反・文治派(≒反・三成)-②反・中央集権までは一致できるものの、家康への態度をどうするか(③の対立)、豊臣家への態度をどう定めるか(④の対立)で足並みが揃いませんでした。いわゆる東軍は決して一枚岩ではなかったのです。

 

私たちプレイヤーは現代人なので、関ヶ原が開戦したら西軍の敗北が避けられないことを知っています。ですが当時の人からすれば、「家康有利なのは確かだが、どちらが勝ってもおかしくない」くらいが率直な感覚だったと思います。ゲームの柳生宗矩は「悪いことは言わないから内府様につけ」などと勧めてきますが、彼も別に家康が勝利確実とまでは思っていないはずです。だから関ヶ原本戦に至るまでに、ゲーム中でも描かれたような、お互いに対する調略(ちょうりゃく)合戦が繰り広げられることになるわけです。

 

文禄・慶長の役と黒田家(およびゲーム中の『武断派』)

いわゆる朝鮮出兵は、秀吉の号令によって始められましたが、一体これが何のためだったのかは諸説あり、はっきりしたことは今も分かっていません。

ただ、少なくともこの戦いの後、黒田家と三成の関係がこじれ、反三成・反文治派に大きく傾くことになったのは確かです。

長政はなぜ三成と対立することになったのでしょうか?

まず、長政の父・官兵衛は、文禄の役でとある作戦に反対して石田三成らと対立していました。官兵衛は三成の頭越しに秀吉を直接説得しようと朝鮮から帰国しましたが、逆に秀吉に激怒され、軍令違反を咎められて追い返されます。立場を失った官兵衛は、死罪を覚悟して剃髪(出家)し、如水と名を改める羽目になりました。
黒田家側は、どうもこれを三成方の謀略と解釈していた節があります。ゲームの長政が「あの男(三成)は父上を貶めた」と言っているのはこの時の話でしょう。

また長政は、慶長の役の終盤で秀吉の意に反して戦線縮小案を主導したと見なされ、蔚山籠城戦における消極的な行動を「軟弱」と咎められて――なかばいちゃもんを付けられて――謹慎啓蟄居のうえ領地の部分没収処分を受けています。この時、藤堂高虎加藤清正など同調した者も全て譴責(けんせき)処分となり、大きな遺恨となりました。

この件は三成派の目付であった福原長堯(三成の妹婿)から秀吉に伝えられ、その報告にもとづいて処分が決定されたため、黒田家側はこれをやはり三成の陰謀(讒訴(ざんそ))と解釈していたようです。なお実際には、この処分を主導したのは三成を除く残りの四奉行たちで、当時会津へ出向いており不在だった三成は意思決定に関与していません。

 

石田三成襲撃事件

このため長政は、戦後家康に接近し、後に――いわば「不倶戴天の敵」である――石田三成襲撃事件を主導し、三成を大坂から伏見へと追い詰めます。ゲームで描かれたとおり、事件は家康の仲裁によって事なきを得ますが、このとき長政は、五大老の連名で「上述の処分は誤りであり、没収した領地は返却するという言質を取り付けることに成功しています。

こうした史実を踏まえると、ゲーム中竹生島で登場した兼続が――三成襲撃事件が起こる前であるにも関わらず――「世渡りのうまさでは、俺は、甲斐守殿の後塵を拝しているよ」と言い放ったのがいかに痛烈な「煽り文句」であったかが分かります。ゲームの兼続は三成と個人的な友人関係にありますから、彼は持ち前の口の悪さを発揮して友人の「政敵」である長政を挑発してみせたのでしょう。

なお、家康はこの騒動を平和的に鎮定したことをもって世間の信望を得て、向島城から伏見城へ居を移し、公儀の事実上の主宰者――つまり豊臣政権における実質的な最高権力者の地位へのし上がります。彼はそのまま乱世のパワー・ゲームを勝ち抜き、対立する勢力を蹴散らして、天下人への道を駆け上がっていくことになります。

 

義のための戦

ここまで読んでいただければお分かりかと思います。

関ヶ原の戦いは義のための戦ではありません。秀吉亡きあと、かくも複雑に入り組んだ対立と対決の構造を勝ち抜いて権力を握り、いったい誰がこの国を治めるのかを賭けた政治闘争です。

関ヶ原に限らず、戦争というのは概してそういうもので、特におかしなことではありません。乱世に生きる人間の性(さが)とも言えます。だからこそゲームの長政はお家の利害を第一に考えたマキャベリズムに徹し、反対にこの悲惨な乱世で義を貫き筋を通そうとする幸村や兼続には苦難が襲いかかります。

これはいわば「世俗の極み」とも言うべき地上の人間の営みです。だから「龍神も、龍神の神子も、本来、現世の戦には関わらんもの」なのです。ゲーム中で詳しく語られない部分が多いのはややこしすぎてイチイチ説明していられない神子が知る必要がないことだからでしょう。

しかし、一部の攻略キャラの個別ルートでは、神子はこうした地上の営みにみずから関わっていくことになります。その結果何が起こるのか? ぜひゲームをプレイして確かめてみてください。