キャラクターの“解釈”ってなんだ

「公式が解釈違い」というフレーズがSNSで度々バズっている。

 

 おおむね「原作である公式に対して“解釈違い”とは何事か」という否定的な論調で取り沙汰されることが多いと思う。確かに奇妙な言葉ではある。公式が示しているのは特定個人の作品解釈ではなく、“解釈される対象=作品そのもの”だからだ。

 

ただ、そもそも公式を、具体的には公式のキャラクターを“解釈”するとはどういうことだろう?

皆同じものを見ているはずなのに、なぜ“解釈違い”が――はなはだしい時は公式展開に対してさえ――起こるのだろう。

自戒を込めつつ、この「キャラクター解釈」というやつの正体を考えてみたい。

 

結論から言ってしまうと、

 

①「キャラを解釈する」とは「自分の中に独自のキャラクター像を作り上げること」

②「解釈違い」とは「自分の中にあるキャラクター像と合致しない」という意味

 

ではないかと思う。

 

頭の中に住みつくキャラクター

そもそも「キャラクターに萌える」とは何だろう。

 

思うにそれは、「個々のキャラクターそのものを『一個のコンテンツ』として消費*1する」ということだ。

 

鶴丸国永かっこいい」とか「長谷部沼深すぎる」とか「燭台切光忠マジ伊達男」みたいなあれだ(人選が恣意的なのは許してほしい)。コンテンツとして消費しているのはキャラそのものなので、作品に対する評価とキャラ萌えの度合いは必ずしも一致しない。

 

読み手は公式メディアのキャラ描写をもとに、自分の中に「このキャラクターはこういうもの」というイメージを作り上げる。

頭の中に「そのキャラクター」が住みつきはじめるのだ。

 

特に二次創作――同人誌に限らず、広い意味での「萌え語り」なども含む――をする際は、こうした自分なりのキャラ考察に基づくキャラクター像の構築が必要だ。二次創作漫画や小説を書く際は言うにおよばず、「〇〇は寝起きが弱そうなのが萌える」とか「××のこの発言はきっと愛情深さの裏返しだ」とかいった発想も、「そもそもこれはどういうキャラなのか」のイメージがなければ出てこないはずだ。

 

行間を埋める「妄想」

頭の中に自分なりのキャラクター像が出来上がってくると、そのイメージに基づいてキャラクターを動かせるようになる。あるいは勝手に動き始める。

 

ファンが思い思いに行うこれを、一般に「妄想」と呼ぶ。

ちょっと二次創作の世界に片足を突っ込んでいるオタクで、一度も「妄想」したことがないという人は少数派だろう。

 

「妄想」には制限がなく、自分の考える理想の展開をキャラクターに演じさせることもできるし、「公式のストーリーとストーリーの間」――つまりは「行間」を埋めることもできる。これが紙媒体になれば同人誌だし、SNSでつぶやけば萌え語りだし、キャラの格好をしてそのシーンを演じればコスプレ撮影会だ。

要はこれが二次創作なのだ。

 

「公式が解釈違い」?

とはいえ、当たり前だが、公式はあくまでも公式だ。

 

「公式のキャラクター」こそが正であり、自分の中の「解釈されたキャラクター」は主従でいうと従だ。公式の描写と「解釈」に齟齬(そご)が生じた場合、正しいのは公式なので、ふつう「解釈」は修正を迫られる。

 

しかし、キャラを愛するあまり自己解釈によるキャラクター像が強固になりすぎると、そちらの方に愛着が生じてしまうことがある。人間自分の脳の認識からは逃れられないので、こうなるとその人にとっては「解釈」の方が「正」になってしまう。「解釈」の修正を拒む。

 

結果、公式の描写が受け入れられず、「公式が解釈違い」という事態が生じるわけだ。

 

何に「萌え」ているのか

こうなるともはや「公式のキャラクター」に萌えているのではなく、「解釈されたキャラクター」「自分の脳内イメージのキャラクター」に萌えているのに近い。

 

すると、自己解釈を明確に否定されない限り、公式の展開やキャラ描写にはかえって寛容になる(「〇〇尊い」現象)。

公式と解釈違いを起こしかねないほどキャラクターに強い愛着を持っているわけだから、動いたり喋ったりしている推しキャラはそれだけで心の栄養になるし、足りない部分は「妄想」で補えばいいからだ。

 

これが極まってくると、いわゆる「何でも美味しい」無敵の状態になる。

オタクとしてはとてもハッピーな状態ではある。

 

解釈違い絶対殺すマン

一方、「〇〇尊い現象」の反面、「自己解釈に致命的な破綻をもたらす描写」には、公式か二次創作かを問わず激しい拒絶反応が生じることになる。

 

「公式が解釈違い」、「別カプ逆カプ」、「〇〇をする××は無理」、「うちの本丸とは違う」、「刀剣男士はトイレ行かない」――みたいな発言を、誰しも見たり聞いたり、自分がやったりしたことがあると思う。これが過激になっていくと、いわゆる「解釈違い絶対殺すマン」が爆誕するのだろう。

 

つまりは愛情の裏返しなのだ。

その人にとっては「解釈されたキャラクター」こそが愛すべきキャラだ。自覚のあるなしにかかわらず、その愛自体は本物だ。だから余計に難しい。

 

ATフィールドを強固に

「解釈されたキャラクター」を自分の中に持つこと自体は当たり前のことだ。

 

私はそんなことしない、という人もいるかもしれないが、それは誤解だと思う。

読み手にとって作り手は他人なので、ガンダムよろしくニュータイプ能力で感応でもしない限り、「真に正しい公式のキャラクター」なんてものは分からない。誰しも公式メディアの内容を「解釈」して作品を楽しんでいるわけだ。

 

もっと言えば、個々の読み手もそれぞれ別の人間なのだから、「解釈」の中身はそれぞれ違って当たり前だ。100人いれば100通りの「解釈されたキャラクター」が存在する。良いとか悪いとかではなく、そういうものだと思う。

 

大切なのは、公式や他人のキャラクター像が自分のものと違うからといって、別に自分の中のキャラクター像を否定する必要はない、ということだ。

 

公式の展開が気に入らなければ、見なかったことにしてもいい*2

解釈違いの二次創作にうっかり被弾したら、記憶を抹消したらいい*3

 

ただそこで「公式が解釈違いだ許せない」「A×Bなんてありえない」などといって、自分のキャラクター像、自己設定を他人に押しつけるのはやめよう。逆に「公式展開はこうだからこの二次創作は間違っている、修正しろ」みたいに要求するのも同じことだ。

誰しも好きなように*4作品を楽しむ権利があるものだ。

 

みんなATフィールドを強固に持つべきだと思う。

自分は自分、他人は他人だ。読み手は作り手が出してきた作品を受け取らなくてもいい。ただ、自分がそうだからといって、公式や他人にそれを強いたり、あまつさえ攻撃したりするのはお門違いだ。

 

快適なオタクライフのため、自戒しつつ作品を楽しみたい。

*1:この場合の「消費」というのは、「コンテンツを楽しむ」というような意味で、「使い捨て」的なニュアンスではない。

*2:死亡したキャラの生存ルート二次創作が古今東西どれだけ生み出されたことか。

*3:ツイッターにはワードミュート機能というものもある。

*4:もちろん常識的な範囲内で、特に二次創作の場合は公式の許可やお目こぼしの範囲内で、だが。