悲伝私的レビュー

刀ステ新作を見た。

 

 出演キャストは推しキャラばかりだったものの、事前にネタバレを聞いていたので、実際のところ戦々恐々としていた。三日月(と鶴丸)は刀剣ジャンルに来て初めて二次創作したキャラクターでもあり思い入れがあったので、それがああなる展開とは……と、なるべく期待値を下げて明治座に突入した。

 

結論から言うと、想像していたほど悪くはなかった。

 

こういうと上から目線のようで恐縮だが、悪い方面の想像を相当たくましくして行ったので、自分の中で良い意味のギャップがあったという意味だと思ってほしい。推しはちゃんと格好良く描いてもらえていたし、萌えはたくさん供給されていた。

 

ただ、やはりというか、良い作品ではなかったと思う。

 

芯が無いりんご

今回の作品は、舞台『刀剣乱舞』シリーズの「集大成」とのことだ。

 

確かに、最終章として気合いは十分だったと思う。

殺陣も演出も音楽も力が入っていたし、脇役たちのエピソードも充実していた。骨喰の掘り下げが来ることくらいは予想していたが、燭台切や長谷部&不動がああいう形でフィーチャーされるとは思っていなかったし、良い意味の驚きがあった。

 

しかし肝心のところ、りんごの芯の部分がごっそり無いな、とも思った。

 

りんごの芯とは何かというと、要は話のメインテーマ、メインストーリーのことだ。

たぶん、制作側の意図としては「ほのめかすだけに留め、あえて明示しない」みたいな演出のつもりだったのだろう。何となく真相が想像できるような、“謎解きのヒント”のような描写がちらほら見られたからだ。

 

ただ、その演出をここでやる必要はなかったと思う。

 

りんごの芯の正体

りんごの芯の正体、つまりこの舞台はどういう話だったのか考えてみる。

 

物語全体の構造としては、総じて「三日月の抱えている秘密に迫る話」だ。

 

三日月には秘密があるらしい、それは何だろう、どうもこういうことらしい、大変だどうしたらいいんだ、こうするべきだ、いやああするべきだ――と、要はこういう話だった。この謎多き主演・三日月と、主人公・山姥切の物語が作品の核、つまりりんごの芯だ。

 

しかしこの物語、「物語」として一つ欠落があったと思う。

 

それは、三日月自身が、自分が何をどうしたいと思っているのか、を語らないことだ。

 

彼が本丸の仲間をどうしたいのか、あるいはどうしてほしいのか、円環から抜け出したいのかそうでないのか、ということが観客にも登場人物にもはっきり説明されないために、物語の大原則である「対立→衝突→解決」のサイクルが機能していない。

 

エンディング分岐条件

たとえばこういうことだ。

 

三日月が、「本丸の仲間を生かしたいが、そのためには(詳しい理屈は置いておくとして)自分が永遠に円環の中を巡るしかないので、そうするつもりでいる」とする。

すると山姥切にとっての“正解の選択肢”は必然的に「三日月一人に犠牲を強いるべきではない、何とかしてこの円環を打破しなければならない」になる。

 

ここに「対立」と「衝突」が生じる。

となると、ラストは半ば自動的に、円環を打破して大団円(ハッピーエンド)か、奇跡を起こせず三日月無限ループ(バッドエンド)かの二択しかない。

 

そして奇跡を起こすためには、「三日月が何故そうしようとしているのか=三日月が持つ正義は何か」ということを明かした上で、山姥切が相手の正義を超越しなければならない。ハッピーエンドとは、主人公が成長し、変化したことの証明としてもたらされるものだからだ。逆に成長できなければバッドエンドになる。

こうした構造そのものが「物語」であり「ドラマ」の本質だ。

 

おそらく制作側は、後者(バッドエンド)にしたつもりだったのではないかと思う。

賛否あるだろうが、個人的にはバッドエンドであるから評価に値しない、とは思わない。しっかり作りこまれていて、観客が納得できるならそれもありだろう。

 

しかしこの作品の場合は、山姥切がエンディング分岐条件となる“運命の選択”をするための前提――つまり「三日月がどうしたがっているのか」が明かされない。

このため、厳しい言い方をすると、「物語」として体(てい)を失っている。

起承転結の「結」が無いのだ。

 

点と線

「でも燭台切の掘り下げはよかった」「織田組の極エピソードはよかった」「骨喰と大般若の足利コンビの物語は……」、という意見もあると思う。

それはもちろん否定しないし、私も萌えたり燃えたりした。

 

ただ、それらは別に、この話のメインテーマではないはずだ。

キーパーソンである三日月と、彼と対峙する山姥切の物語には直接の関係がない。メインキャラクター二人が、脇役たちのエピソードに何か影響を受けた様子もなかったと思う。言ってみればスタンドアロン、「点」のエピソードたちだ。

 

点のエピソードは文字通り「粒ぞろい」だが、それが物語の屋台骨であるメインストーリーに絡んでこない。点が線として繋がってこないのだ。

これはなぜか?

 

テーマが収束しない

どんな群像劇であろうと、最終的には一つの物語に収束することが多い。

 

『グランド・ホテル』も『タワーリングインフェルノ』も『七人の侍』も、それが「何をする物語なのか」「何を目指す物語なのか」は明確だった。最終的に主役も脇役も、あらゆるテーマがそこへ収束していく。だからこそカタルシスがある。

 

悲伝はどうかというと、あれは「三日月をどうにかして危機を脱する物語」だった。

三日月の抱えている問題が何で、彼はどうしたがっていて、だから仲間たちは彼をどうするべきで、何と戦うべきなのか、それを問う物語だ。実際、第一幕まではそういう流れで進んでいたと思う。

 

一方、脇役たちのエピソードは、この「三日月をどうにかする話」において、どういう位置づけを与えられていたのか?

 

たとえば、燭台切が得た「自分は刀だ。戦うためにここにいる」という答えについて。

燭台切光忠というキャラクターを考える時、これが重要テーマなのは間違いない。だが、物語の主軸が三日月と山姥切である舞台にあって、これが彼ら二人の織りなすメインストーリーに対してどんな意味があるのか、ということだ。

はっきり答えられる人は多分いないと思う。

 

繰り返しになるが、それは三日月が自分の動機や思いを語らないことによって、メインストーリー=「三日月と山姥切の対立軸」が見えてこないからだ。

「Xの正体」が分からないのに、「Xに対するYの意味」が分かるわけもない。せっかく「粒ぞろい」の脇役たちの物語も、屋台骨を失って輝きは半減している。

 

「萌える作品」と「良い作品」

萌えられるからといって、良い作品であるとは限らない。

 

「萌える作品」の定義は明快だ。

なぜって見る人が萌えられればいいからだ。

主観的な話だが、感情的にハッピーな気持ちにしてくれる作品の価値というものは否定されるべきではないと思う。私も長谷部くんが回復したみっちゃんに燭台切!って寄っていくシーンは萌えた(燭へし脳)。

 

だが、「良い作品」は客観的に評価されるべきだ。

 

良い作品は、良い役者と、良い演出と、良い音響と、そして何より素晴らしく完成された物語構造を持つ脚本によって構成されている。名だたる傑作映画、名作舞台は皆そうだ。

 

その点を踏まえると、今回の悲伝は決して良い作品ではなかったと思う。

結局、主演キャラクターが自分の思いを語らせてもらえない舞台が、良い作品になれるはずもない、という一点に尽きる。

 

終わりに

私は刀剣乱舞という作品が好きだ。

 

だからメディアミックスは常に最高のクオリティーであってほしいと思っている。

 

「何となく」のウケ狙い、「女性向けかくあるべし」みたいなステレオタイプ、そういうくだらないことは全部忘れて制作者の魂込めた作品作りをしてほしい。性癖全開で構わない。その結果キャラが死のうが作中世界がバッドエンドで滅亡しようが、クオリティーが高ければ何だって構わない、と思っている。

 

その情熱こそが、素晴らしいエンターテイメント作品を生みだすと信じているからだ。

 

私は刀ステの制作陣のことをよく知らないが、今回それが可能なだけの情熱は持ってくれていたのではないか、と感じた。

 

だから余計に、なぜ、と首を傾げてしまう。

次回作は制作者の全力全開の舞台にしてもらえたら嬉しい。